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水戸の真ん中 千波湖

水戸は水都(すいと)です。豊かな自然に囲まれた千波湖が、水戸の市街地の真ん中、偕楽園から一望できる位置に広がります。水戸に暮らす人々にとってかけがえのない「憩いの庭」であり、水戸を観光で訪れる人々を優しく迎え入れる「おもてなしの場」でもある千波湖。このまちの象徴のひとつである「千波湖」をキーワードに、水戸の魅力をさまざまな角度から探ります。

[特集]水戸の暮らし名人

[特集]千波湖の四季物語

 

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昼はランナー、夜はマスター。

──千波湖畔を駆け抜ける、今日も明日もあさっても。

 

水戸駅北口で居酒屋「角助」を営む木村正直さんは、30年前から千波湖畔を走っている「ベテラン千波湖ランナー」のひとり。千波湖の整備の変遷や千波湖に集う人々の様子を見てきた木村さんに、千波湖ランニングの魅力や、そこから得た人生観などを伺った。

美しく整備された千波湖畔は、水戸市民にとって最高の運動の場だ。毎日、早朝から深夜近くまで、さまざまな市民ランナーたちが、思い思いのペース・格好で、ランニングやジョギングを楽しんでいる。

8月のとある日曜日の午後3時。ふつうの人ならまず避ける日差しの強烈な時間帯に、ひときわ軽やかな足運びで湖畔を走り抜けるランナーがいた。

木村正直さん、64歳。水戸駅北口で大衆居酒屋「角助」を、35年間営むマスターだ。

30年前に走り始めて以来、病気を患って走れなかった期間を除くと、ほぼ毎日、千波湖畔を走っている。ただ、走り始めたきっかけはよく覚えていない。 「なぜ走り始めたのか…千波湖の元旦マラソンに出たのがきっかけだったかな。べつに仲間がいたとかではなくてね、つねに孤独なランナーですよ。走ること以外にも、以前は山登りや渓流釣りが好きだったから、こう、ひとりで自分の世界に入っていけるスポーツが性に合っていたのかも」

30年前の千波湖は、もちろん、現在のように整備されてはいなかった。
「それはもう、今とはまったく比較にならないくらい、道はデコボコでね。それでも、水戸で走るといったら、やっぱり千波湖でしたね。1周すると3キロっていうのがちょうどいい距離だし、街の中心部なのに、自然のなかを走れるでしょう、生き物もいっぱいいてね、白鳥、黒鳥、鳩、鴨に、鮒や鯉。こんな環境で走れる場所って、よそじゃそうそうないですよ」

とくに千波湖に吹く風が好きなのだという。

「千波湖はね、風がきれい。湖面を渡ってくるからだろうね、風がきれいで、走っていて気持ちいい」

季節のなかでは、秋が好きだ。
「どの季節にも良さがあるけれど、とくに秋が好きですね。暑い夏が過ぎて体調がよく感じられるから、走りが軽くなるし、木々が色づくのを見ながら、一日一日涼しさを増していく風を感じることができる」

でも、なぜだか夏は午後のいちばん暑い時間を選んで走っている。

「(笑いながら)いや、朝起きて、ごはん食べて、新聞読んで、犬の散歩を済ませて、さあ走ろうとなると、この時間になっちゃうだけで。まあでも、確かに暑い時間に走るのも嫌いじゃないかもしれない。いちばんキツい時間に走ってるってのが、なんかがんばってる感じで気持ちいいというかね。そういうところも、走る人には正直あるかもしれないね」

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顔を合わせれば、
自然と会話を交わすようになる

千波湖から4キロほどの距離にある青柳町の自宅から走り始め、千波湖を2周して帰るというコースが最近の定番となっているが、以前は10周ほど走っていたこともある。そのときは、1周するごとに小石を並べて周回を数えた。

毎日小石を並べながら湖畔を何周も走っていれば、孤独なランナーといえど、顔見知りも自然と増えいく。

「同じ時間帯に会う人たちとは、自然に会話を交わすようになりますね。うちでも犬を飼っているから、犬を連れている人にはつい声をかけたりとか。そういう交流がごく自然に生まれるっていうのも、千波湖を走る楽しみのひとつだね」

現在のように美しく整備されてからは、いっそう、集う人たちの千波湖に対する愛情を感じることが増えたという。

「千波湖はいつもきれいでしょう。それはね、たくさんの人が千波湖を愛してるからなんですよ。ボランティアの人たちもたくさん活動していてね。集う市民も、走ってる人たちだけじゃなくて、散歩をする人たち、水辺で憩う人たち、みんなが、きれいで気持ちいい千波湖を大切にしている。うちの孫なんかも、だからね、千波湖が大好きですよ。時間があると、千波湖に行こう行こうっていいますからね」

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大病を患い、走れなかった時期が
あるからこそ

「千波湖ランニング」の成果を、木村さんは、過去さまざまなマラソン大会で試してきた。水戸の隣町のひたちなか市で行われる「勝田全国マラソン」には、これまでに10回出場している。2012年は5時間30分の記録で完走した。ほかに、ソウルマラソンやパリマラソンに出場したこともある。どちらも見事にゴールを果たしている。しかし、1999年に出場を予定していたニューカレドニアマラソンには出られなかった。直前に走れなくなってしまったからだ。

マイペースで順調にランニング人生を送ってきたように見える木村さんだが、じつは、病気で走れなかった期間も長い。13年前には、脊柱管狭窄症(脊椎にある神経を囲む管がすぼまる病気)を患い、3ヵ月間はまったく歩けず、その後7年間、フルマラソンを走れない期間が続いた。

「痛くて走れなくてね。辛かったですね。それでも、なんとか走れるようになりたくて、ジムに通って筋力トレーニングをしたり、温水プールで歩いたりを続けてね。そのうち、ようやくすこしずつ走れるようになってきて、でも、やりすぎるとまた痛くなって。そういうのを繰り返すうちに、自分でだんだん調整の仕方がわかってきて、やっと7年目に大会で完走するまでこぎつけた。うれしかったですねぇ」

復調したのも、つかの間、今度は下咽頭がんが木村さんを襲う。今から5年前のことだ。妻で、35年間ともに店に立つマチ子さんが、木村さんに代わり説明する。

「お酒が大好きだから、マスターは。おいしいビールを飲みたくて走ってるようなところがあるから。がんが見つかったのは、本当に偶然で、ピロリ菌除去治療のための検査をして、その結果を診てもらうのに胃カメラを飲んで、カメラを抜くときに、ノドのあたりの画像を見て、先生が、あれ?って」

がんを切除すると声が出なくなり商売が続けられなくなるため、放射線と抗がん剤による治療を受けた。少し神妙な顔で木村さんが振り返る。

「抗がん剤の治療は、倦怠感が本当にひどくてね。一時は13キロも痩せちゃって、1キロも走れないどころか、さい箸さえ持てない状態になっちゃった」

横からマチ子さんが言葉をさえぎる。
「でも、治療中もしょっちゅう飲んでるんですよ。病院の近くの店でビールを買ってね。そういう人が、なんだか病棟にいっぱいいてね(笑)。まったくねぇ。」

呆れ顔半分、笑顔半分で話すマチ子さん。木村さんが入院している間も、いつもの「ママの笑顔」で、アルバイトの男の子とふたり、店を開け続けたのがこの人だ。木村さんが続ける。

「走ったあとのビールは最高だからやめられないけどね(笑)、まあ今は前よりは控えるようにしてますよ。大きな病気した後だから、今は本当に、人生は平凡で健康なのがいちばんだと、心からそう思いますよ」

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一日一日を大事に使って生きていくということ

晩夏のある日の夕方6時。水戸駅北口の銀杏坂にある木村さんの店「角助」を訪ねた。

大きな赤い看板がある入口から階段を下りた地下1階に、店がある。35年前に開店したときは、今より2軒分駅寄りの土地の1階に店があった。そこで10年。今の場所に移ってから25年。歴史のある店だ。店内に入ると、しかし、不思議なほど時間の澱(おり)のようなものが感じられない。常連客も、初めての客も、軽やかに迎える清新な空気感が、この店にはある。そう、ちょうど木村さんの走り姿や佇まいにも似た、淀みのない雰囲気。

「うちは、おこづかいの範囲で気楽に飲めるようなお店だから。おつまみも300円台が中心で、ひとり2千円から2千500円あれば、お腹もふくれて、ほろ酔い気分で電車に乗って家路につける。誰でもその日一日のストレスを少しここで減らしていってくれたら。そういう店です」

この35年の間に、店から徒歩5分の距離にあった県庁が移転するなど、周囲の様子は一変した。消えていった店も多い。それでも角助が変わらず愛されてきた理由はなんだろう。

「なんでしょうね。毎日毎日お客さんのニーズに一生懸命応えてきた、ただそれだけですけどね。あとは、一日一日、大事に使っていくということかな。人生、本当にあっという間だから、平凡で健やかな毎日を大切に繰り返していくということ。そのすばらしさを毎日思うということです」

大病を経験し、商売の環境の大きな変化も経験した木村さんが、くり返し口にする「平凡で健やかな毎日のすばらしさ」。言葉の奥に広がる深い想いが、静かに伝わってくる。

これからもずっと、木村さんの「千波湖ランナー」と「マスター」の日々は続いていくだろう。今日も明日もあさっても。変わらず平凡に。毎日新鮮に。

(文…笠井峰子 │ 写真…大谷健二)

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樹木医と750本の桜の話。

──千波湖畔に咲く桜すべてを一本ずつ調べた樹木医の夢

 

千波湖をぐるりと取り囲む桜の木々。総数は750本、品種は30にものぼる。その一本一本について調査をし、「千波公園サクラマップ」を作成した樹木医の沼田さんに、千波湖畔を歩きながら、桜について話を聞いた。

毎年、「水戸のシンボル」である偕楽園の梅の花が見ごろを終え、日差しに暖かさが一段と感じられるようになると、今度は、千波湖畔をぐるりと取り囲む桜の木々が、競うように薄ピンク色のつぼみをほころばせ始める。湖面に張り出した枝々が水面に映る姿も相まって、桜の時期の千波湖は、まるで湖全体がうす紅色の霞で覆われたような、幻想的な姿となる。

梅から桜へ、偕楽園の丘から千波湖の水辺へ。早春から晩春にかけて水戸のまちなかで繰り広げられる魅惑の花リレー。千波湖の桜はいまや、偕楽園の梅と同様、水戸の春に欠かせない風物詩となっている。

園芸店には並ばない珍しい品種も

 今から約3年前、その千波湖畔の桜の木々を、一本ずつ調査した人がいる。樹木医であり、造園業を営む沼田佳三さんだ。沼田さんは、財団法人水戸市公園協会からの依頼を受け、千波湖畔に植えられた桜の木を一本ずつ調べ、品種を確認して記録し、「千波公園サクラマップ」を作成した。これを見れば、千波湖のどのあたりにどんな品種の桜が植えられているかがひと目でわかる(サクラマップは千波湖の好文茶屋付近の水辺に掲示されている。また千波湖のホームページでも見ることができる)。

沼田さんの調査によって、千波湖の外周および少年の森広場に植えられた桜の木は、約750本を数えること、そして、その品種はなんと30にものぼることが初めてわかった。

10月下旬のある日、湖畔のシキザクラやジュウガツザクラが花を咲かせるなか、沼田さんに話を聞いた。

「僕も調べてみて、本当に驚きました。本数にも驚きましたが、まさかこれほどの品種の桜が植わっているとは思わなかったですね」

なかでも本数がいちばん多いのは、やはりソメイヨシノ。このソメイヨシノが4月の初旬に一斉に花を開き、続いて八重のサトザクラが4月の中旬頃から5月の上旬頃まで咲き続ける。品種によって花の時期が少しずつ異なるので、千波湖畔ではかなり長い期間桜が楽しめることになる。

30品種のなかには、園芸店の店先にはまず並ばないような珍しいものもいくつかあるという。

「たとえば、バイゴジジュズカケザクラなどは、皆さんまず見たことないんじゃないかと思いますね。それと、コブクザクラなども珍しい。春だけでなく秋に楽しめる桜もあるんです。シキザクラやジュウガツザクラなどがそれで、今(10月)咲いていますね。さらには、ソメイヨシノが咲く前、まだまだ寒い3月に咲き出すカンザクラ、オオカンザクラ、ツバキカンザクラなども随所に植えられています。皆さんには、ぜひ、何度も千波湖を訪れて、桜を再発見していただきたいですね。図鑑などであらかじめ花をイメージしておけば、さらに楽しめると思いますよ」

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桜の専門家の協力を得て品種を「同定」

 1周3キロの湖畔に植えられたこれだけの本数の桜を、沼田さんはどうやって調べていったのだろう。

「たとえば『この桜はソメイヨシノだ』と判断することを専門用語で『同定する』といいますが、これは、すべて実際の花を観察して行います。開花時期が違うので、すべての桜を調査するのに、3人がかりで丸々2ヵ月間かかりました。当時は千波湖を何周したかわかりません(笑)」

自身で確実に判断がつくものは自分で同定し、『似ているけれどどうなんだろう』と迷うものについては、樹木医の先輩であり、桜の権威である田中秀明先生の協力を仰いだという。

「田中先生は『財団法人日本花の会』の結城農場長を務められているので、わからないものは直接結城まで花を持っていきました。同定するには、ガクの形はどうか、毛が生えているかいないかといった、非常に細かい部分の観察が必要で、桜を専門とする方の知識がどうしても必要になります。田中先生のほかにも、僕が所属している『一般社団法人日本樹木医会茨城県支部』には、いろいろな専門分野で活躍されている樹木医がいるので、その方々にも相談をすることができ、助かりました」

そうやって一本一本調べ、750本すべての品種を記録し、そのうえで、わかりやすく情報を簡略化して作成されたのが、「千波公園サクラマップ」。大変な労苦の結晶だ。だが、沼田さんは、この調査はたたき台のようなものと言い切る。

「僕が行った平成22年の調査では、すべての木を調べましたが、認識番号札は10本おきにつけただけなので、たとえば木が枯れたり倒れたりしてしまうと、何番の木だったのか、あとでわからなくなってしまう。今後、きちんとした管理と追跡調査を行うには、やはりすべての木に認識番号をつける必要があります。それがあれば、木の生育状態を一本一本記録することもできるし、同じ品種を補植することもできる。今後は、数年ごとに調査を重ねて、データをより完璧にしていくことが必要だと思います。品種を示すプレートなども整備できるといいですしね」

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千波湖の桜を街おこしにつなげていきたい

周囲を桜に囲まれている千波湖は、桜にとって生育しやすい場と思いがちだが、沼田さんによると、じつはまったくそうではないという。

「このあたりは地下水が高いんです。掘るとすぐに水が出てくる。湿地に近い状態ですね。こういう水際では木が根を深く張ることができませんから、土壌条件としては、残念ながらよくないんです」

そんな条件下でも、毎年毎年、春になると一面をピンク色に染め上げるように見事な花をつける千波湖の桜。沼田さんが続ける。

「木にとって、花を咲かせるということは、子孫を残すための重労働なんです。1年がかりで準備して咲かせるわけですからね。ですから、樹木医の立場から言わせてもらうと、皆さんにはもっと桜を『生き物』として見てほしいと思います。僕などは、そもそも木の生きる力に惹かれて樹木医になったようなところがあるんですよ。木の種類にもよりますが、それなりに手をかけてあげれば、木は200年300年と生きていく。僕らがまだこの世に存在しないころから生きていて、僕らが朽ちてもまだ生き続ける。そのあたりに、畏敬の念を抱いているほどです」

確かに、私たちが目を向けるのは花の時期だけになってしまいがちだ。

「その花をただ『きれい』と眺めるだけでなく、生き物の営みとして見てみると、より桜に関心を持ってもらえると思うんです。さきほども幼稚園児たちが湖畔を先生たちと散歩していましたが、桜の開花時期にはぜひ子どもたちにも『桜は生きているんだよ』と教えてほしいと思いますね。桜を生き物として捉える方が増えれば、千波湖はもっともっとすばらしくなっていくだろうと僕は真剣に思っています」

沼田さん自身も、千波湖が大好きで、しょっちゅう訪れるという。

「だって、こんな場所、ほかにないでしょう。JRの駅から歩いていける場所に湖があって、緑があって、水鳥がいて。これ以上は望めないような最高の環境ですよ、水戸は」

沼田さんの夢は、その大好きな千波湖、そこでたくましく生きる750本の桜をもっともっとたくさんの人に知ってもらうことだ。

「僕はね、千波湖の桜が、水戸の産業につながっていかないかなといつも考えています。偕楽園の梅と同じように、千波湖の桜も、農商工が連携して、何か魅力的な、おもしろい展開につながっていけばいいなと考えています。それが、より多くの人に水戸に訪れてもらうきっかけとなればすばらしい。そうしたら、千波湖の桜は新しい『水戸のシンボル』になると確信しています」

(文…笠井峰子 │ 写真…池田勤、大谷健二)

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真夏の千波湖に咲く日本一の花。

──水戸の地で130余年続く伝統を守りながら、最新技術に挑み続ける四代目花火師、野村陽一、千波湖への熱き想い。

 

水戸の夏の風物詩である「千波湖花火大会」。そこで打ち上げを担当しているのが、水戸で130余年続く老舗、野村花火工業の四代目、野村陽一さんだ。初代から続く千波湖花火大会との関わりを聞きながら、その作品を追い求めて全国各地から人が集まる「野村花火」の魅力を探った。

毎年8月、第1週の金曜から日曜にかけて開催される「水戸黄門まつり」。昭和36(1961)年から始まったこの祭りの目玉のひとつが、金曜の夜に前夜祭として行われている千波湖花火大会だ。水戸市民なら誰もが一度は観たことのある、否、多くの人が毎年心待ちにしているであろう「千波湖の花火」。夏の夜空を彩る光と色、そして音の饗宴。この華やかで壮大な約1時間のプログラムすべてを取り仕切っているのは、水戸市にある花火製造会社「野村花火工業株式会社」。創業は明治8(1875)年という老舗で、現在同社の代表を務める野村陽一さんは四代目。秋田県の大曲全国花火競技大会やここ茨城県の土浦全国花火競技大会など、名だたる競技会で幾度も優勝を飾ってきた、日本を代表する花火師だ。

水戸の花火大会を、水戸の花火師が請け負っている。

当たり前のように聞こえるが、全国各地で開催されている花火大会が、それぞれ地元の花火師によってプロデュースされているわけではない。実際、野村花火には茨城県内はもとより全国から出演の依頼が相次ぎ、新潟県長岡市の天地人花火や山形県鶴岡市の市民花火など、全国各地の花火大会に携わっている。それぞれの土地にはもちろん「地元の花火師」がいるが、「より多くの観客を集め、感動させられる花火師に頼みたい」「全国にファンがいる野村花火さんに来てほしい」と、日本中からラブコールが寄せられているのだ。

そんな、日本一の花火師が、水戸にいる。この事実は水戸市民にとって幸運以外のなにものでもないが、そもそも千波湖の花火大会自体が野村花火とは切っても切れない深い縁を持っている。少し時代をさかのぼり、その歴史に触れてみよう。

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創業者の野村為重が、
千波湖花火大会の初回を手がける

千波湖の花火大会の由来とされるのが、明治39(1906)年に始まった「沼開き花火大会」。その名称からもわかるとおり、当時はまだ千波湖ではなく千波沼と呼ばれていた。そんな古き時代、つまり100年以上も昔から開催されていたわけだが、これほどまでに長い歴史を持つ花火大会は全国でも珍しいという。途中、戦争などで一時中断していた時期はあったものの、昭和28年に戦後復興の意気込みとともに「千波湖花火大会」として復活。東京から臨時列車も出るほどの賑わいで、以降は夏の行事として恒例化し現在に至る。

そして、この伝統ある花火大会の打ち上げを初回から担当したのが、野村花火の創業者・野村為重その人なのだ。黒船が来航した寛永年間に生まれた為重は、花火の打ち上げ・製造のかたわら、ぶどう園や養鶏、印刷業なども手がけたほか、剣術・天心流の使い手であり、免許皆伝の腕前から「剣術花火師」としてその名を馳せた多才な人物。さらに、その為重が住む水戸の地は、水戸藩として発展を遂げ、国内でも花火づくりが盛んに行われていた土地だった。

慶長17(1612)年に徳川家康が日本ではじめて花火を観て以来、諸大名、そして庶民の間にも流行した花火だが、火薬を使う花火の製造には幕府の許可が必要で、その点、徳川御三家である水戸藩は比較的自由に火薬が使える優位性を持っていた。そんな背景を活かし、火術師や砲術師の間で盛んに製造されて発展してきた「水戸藩の花火」と、才能と行動力にあふれる「剣術花火師」。この両者の組み合わせが千波湖の花火を生んだというのだから、運命の巡りあわせに感謝しなくてはいけない。ちなみに、稀代のアイデアマン・為重は、明治29(1896)年に始まった「水戸観梅」(現在の梅まつり)の創始者でもあり、そのチャレンジ精神と遊び心は四代目の陽一さんにも脈々と受け継がれ、私たちにすばらしい花火を楽しませてくれている。

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湖岸で打ち上げる千波湖は、
近い距離で花火が観られる

60分の間に、約4500発の花火が打ち上げられる千波湖花火大会。玉数だけでいうと、花火大会の規模としてはそれほど大きいものではないが、玉数だけでははかれない「千波湖の花火」ならではの魅力があると野村さんは語る。

「まずは、その立地です。花火は火薬を爆発させた衝撃で打ち上げるため、打ち上げ場所と観客の間には保安距離をとらなくてはいけません。通常は河川敷などの広い場所に立ち入り禁止区域を作って打ち上げ場所を確保するのですが、千波湖の場合は湖岸にスペースを確保するのが難しいため、湖面に舟を浮かべ、その上から打ち上げます。そのため、より近い距離で花火を観ることができるんです。ちなみに、『ド~ン』と身体に響く音も、打ち上げ花火の魅力のひとつ。この音と、夜空にぱっと開く花火の姿、その両方を楽しんでほしいので、湖岸から300メートル以内の場所で観るのがおすすめです」

また、水戸駅から近いというアクセスの良さや、市内の京成百貨店などのビルからも見物することができる、市街地の中で開催される花火大会である点も千波湖の立地ならではの特徴。そして、忘れてはならないのが千波湖を眼下に一望できる「偕楽園」の存在だ。

「私は打ち上げる側なので偕楽園から花火を観る…というのは叶わぬ夢ですが、偕楽園から眺める千波湖は、水戸の景色のなかでもとくに好きな風景。この美しい景色に囲まれて花火を観ることができる環境は、ほかにないんじゃないでしょうか。さらに、湖面に映った逆さ花火も楽しめますし、ロケーションの良さは全国でも格別です。最高の環境があって、すばらしい花火師がいる。水戸は恵まれていますね」と冗談交じりに話す野村さんだが、その言葉は決して大げさなものではない。なにしろ、全国の花火競技会での総合優勝や、内閣総理大臣賞の受賞を幾度も経験してきた「日本一の花火師」なのだから。

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多くの人に喜んでもらえる
その嬉しさこそが原動力

打ち上げ花火は、尺玉一発ごとの迫力や華やかさに目が行きがちだが、じつは一連のプログラムとして構成されている。そこにはストーリーがあり、音楽があり、演出があり、さながら大空を舞台にした一大演劇になっているのだ。花火師の仕事も、花火を製造して打ち上げるだけでなく、全体の構成や演出すべてを企画・実行することにある。さらに、何万人、何十万人という人が集まる花火大会では、万が一にも事故やトラブルが起きないよう常に神経をとがらせていなくてはならないという重責がある。野村さんをはじめ、花火師たちがそんな苦労を乗り越えていけるのは「たくさんの人に喜んでもらえるうれしさ」があるからこそだという。

「花火のきらめきは一瞬ですが、その思いい出、感動は一瞬で消えてしまうものではありません。夜空に開いた大輪の花の美しさ、次々と打ち上げられるスターマインの迫力、それぞれのシーンが記憶に刻まれ、心の中に生き続けます。美しいものを観た感動や体中に響く重低音の心地よさに心が洗われるような感覚を味わうこと、この『心の洗濯』は花火のもつ大きな魅力です。そしてなにより、家族や恋人など大切な人とその感動を共有できることは本当に貴重な経験になります。これだけ多くの人を一瞬で感動させ、いつまでもその記憶を残していける、そんなことができるのは花火だけではないでしょうか」と、花火師のやりがいを野村さんは熱く語る。

「技術の進歩とともに演出の多様性も広がり、最近では音楽を組み合わせた構成も欠かせないものとなりました。江戸時代には炭が燃えるようなオレンジ色の火花を楽しむだけだった色味も、赤青緑、ピンクや紫など、実にたくさんの色彩が出せるようになりました。表現の幅が広がった分、私たち花火師はより喜ばれる企画と演出を磨いていかなくてはいけません。大きな賞を受賞するのは光栄なことですが、それに慢心することなく日々精進を心がけています。千波湖の花火大会には、全国で評価された証を皆さんにお披露目するという想いも込めています。生まれ育った水戸の地で、初代から受け継いできた花火大会を成功させることは、私にとって大きな意味と意義があります」

水戸に、日本一の花火師がいる。水戸を愛する、花火師がいる。それを知ると、毎年当たり前のように観てきた千波湖の花火が、かけがえのないものだということに改めて気付くだろう。

次の夏にはぜひ湖畔に出かけて、30万人と一緒に感動を共有してほしい。

(文…伊藤梢 │ 写真…大谷健二、野村花火工業(花火の写真すべて))

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昼夏の夜の夢のあとかたづけも
また楽し。

──花火大会の翌朝恒例、総務部次長の、千波湖ゴミ拾い大作戦!

 

なんとも爽やかな表情で、楽しげに千波湖畔を歩く男性たち。よく見ると皆大きなゴミ袋を抱えている!──これは、「千波湖花火大会」翌朝の千波湖での光景。10年以上続く、知る人ぞ知る夏の千波湖の恒例行事だ。この活動の幹事を務める茨城トヨペット社を訪ねて話を聞いた。

「千波湖花火大会」翌日の午前4時半。まだ夜が明けきらない早朝の千波湖畔に、たくさんの老若男女が集まっている。皆、透明のビニール袋を手に、顔にはこれ以上はないというくらいの爽やかな笑みを浮かべながら、昨夜の「花火大会」で出たゴミを拾い集めていく。

参加者の数は千人あまり。この人数で一斉にゴミを拾い集めるため、1時間もたたないうちにゴミ袋の山ができる。5時半をまわったころには、千波湖はすっかりきれいになり、その姿を確認した参加者たちは、三々五々、湖を後にする──。

これが、すでに10年以上続いているという花火大会翌日の「千波湖ゴミ拾い」の光景だ。

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たくさん詰まったゴミ袋は勲章のよう

このボランティア活動の幹事役を務める会社のひとつが茨城トヨペット。活動の話を伺うため、後日、総務部次長の箕浦さんを訪ねた。本社の応接室で挨拶を交わし、8月に撮影した写真を何枚か机に並べると、箕浦さんが写真を指さしながら言う。
「あ、これ、私ですね」

偶然にも、ゴミ袋を片手に爽やかな笑顔で仲間と湖畔を歩く箕浦氏の姿を、カメラマンがとらえていた(前のページの右から2番目の男性)。写真の中の箕浦さんは、目の前にいるスーツ姿の箕浦さんよりずいぶん若く見える。正直に伝えてみると、笑いながら箕浦さんが答える。

「この日はものすごく張り切ってやっていますからね。家では何もしない私ですが、千波湖の掃除は楽しくて仕方がない。持っている袋をゴミでいっぱいにしたいから、人の後は歩かず、人の前をどんどん歩いて拾います。たくさん詰まったごみ袋は勲章みたいなものですから」

そもそもこの活動はどのように始まったのだろうか。

箕浦さんが振り返る。

「社内の資料を辿ってみたのですが、10年前のものには取り上げられていました。ですから確実に10年以上、おそらく15年以上は続いていると思います。水戸市の協力を得ながら、私どもグループ会社の中で1年ごとに幹事を交代しつつ、毎年の活動を進めています。、グループ会社全体から、毎年200人くらいは参加していますね」

茨城トヨペットで参加対象となっているのは、本社と水戸にある営業店に勤務する、管理職および一般職でランクが上の社員。そのため、当初から参加者には男性が多かった。

「10年前は、ゴミの多さと匂いがものすごくて、皆うつむき加減でやっていました。今みたいに他のボランティアの方もそんなにいなかったから、『これ、本当にきれいになるの?!』という感じで。」

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あの光景を見た子は、ゴミを捨てない

市民ボランティアの人たちが増えたのはここ4~5年のこと。

「以前は5時集合だったのですが、それだと拾うゴミがなくなってしまう状況になって、社長がそれじゃダメだ、もっと早く集まれということで(笑)、4時半集合になりました」

自主的に参加する若い社員も増えてきた。

「今は、会社でISOも取得していますし、こういう社会貢献活動についても積極的に社員が参加するようになりました。家族を連れてくる人もいますね」

箕浦さん自身も、お子さんが小さいころ、誘ったことがあるという。

「結局、起きてくれなかったんですけれど(笑)。こんなにすごいんだよっていうのを一度見せたかった。あれを目にした子どもはゴミを捨てなくなると思いますから」

そう、ゴミを拾うのも水戸市民が中心なら、そのゴミを捨てているのも、残念ながら水戸市民が中心だ。

「どうやったらなくなるんでしょうかね。ひとりひとりの意識を少しずつ変えていくしかないのだと思いますけれどね。私どもの会社としては、ゴミがなくなるまでこの活動は続けていくと思います」

箕浦さん個人にとってはどうだろう。このゴミ拾いはどのような意味を持つのだろうか。

「うーん…難しいな。まあ、いろんな行事がありますけど、これだけは絶対に忘れないですよね。もし仮に忘れていても、前日に合図が上がりますから。派手にドーンと(笑)。そうすれば、おお、明日だ!って」

野村花火の野村社長には内緒にしておきたい話だが、しかし、箕浦さんにとっては、花火大会の「翌日」こそが、1年に一度の大切な日だ。
千波湖のゴミがなくなる日をめざして、総務部次長の夏のゴミ拾いはまだまだ続く。

(文…笠井峰子 │ 写真…平井夏樹)

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みんなでつくった
千波湖のためのビオトープ。

──野草を植えて、窒素を吸わせれば、千波湖の水がもっときれいになる!

 

緑にあふれ、水鳥たちが羽を伸ばす千波湖だが、じつはその水質は、水戸市が理想とする基準にはまだ至っていないという。なぜ水が汚れてしまうのか。秋の千波湖畔で行われた「市民ビオトープづくり」と「千波湖環境学習会」に参加して、その理由を探った。

10月下旬、秋晴れの日曜日。千波湖南岸のハナミズキ広場に100名を超える市民が集まった。中心となるのは、生き物好きの小学生たち。長靴を履き、保護者と一緒に泥だらけになりながら、夢中で野草を運んだり、植えたりしている。作業はどうやら2班に分かれて行われているようで、片方の班が、イグサやセキショウ、ショウブなど千波湖周辺に自生する野草を採取し、もう片方の班が、それらをハナミズキ広場の湧水池の浅瀬に植え込んでいく。

彼らが取り組んでいるのは、千波湖の水質と環境を整えるための「市民ビオトープづくり」。ビオトープとは、「生物群集が存在できる環境条件を備える地域」、「生物群の生息場所」などを意味する言葉だ。この湧水池に植えた植物が根付けば、千波湖の水質浄化の新たな一歩につながるという。

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夏の水と秋の水、「色」の違い

「市民ビオトープづくり」のちょうど一週間前の日曜日。千波湖畔で開催された「千波湖環境学習会」に参加した。この学習会は、水戸市と茨城県環境管理協会が3年ほど前から月に一度開催している人気の企画で、多いときには参加者が100名を超えるときもあるという。継続して参加する子どもも多い。

この日のテーマは、「秋の水質調べと野草観察をしてみよう」。雨のちらつくあいにくの空模様だったが、開始時間になると千波湖黄門像そばの親水デッキに、小学生を中心に約50名が集まった。

さっそく「秋の水質検査」をするため、千波湖環境学習会のリーダーであり、茨城県環境管理協会に勤務する川島さんが、親水デッキから紐で結んだバケツをたらし、千波湖の水を汲み上げる。その水を観察用のビーカーに移すと、夏の学習会にも参加したという女の子が声を上げた。「あ、夏はすごい青緑色だったのに、色がなくなってる!」

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夏の時期にアオコが増えてしまう原因

水戸市民の憩いの場として親しまれ、四季折々の美しい景観を楽しませてくれる千波湖だが、じつはその水は、市が目指す状態ではまだないのだという。水の汚れ具合を表すCOD(化学的酸素要求量)の数値は常に基準値を上回っていて、この夏もアオコで湖面が一面青緑色に染まった期間があった。女の子が口にした、夏の「すごい青緑色」とはまさにこのことだ。

川島さんが、千波湖の水質とアオコ発生の原因について説明する。

「千波湖の水の約7割は桜川から流れ込んでいます。桜川の水のCOD値は約4㎎/lで、基準値をクリアするきれいな水です。その水が7割を占めるので、循環がうまくいけば千波湖の水もきれいなはずですが、初夏から秋口にかけてはアオコがひどく発生します。夏期になぜ汚濁がひどくなるかというと、平成13年に設置された柳堤堰というダムの稼働が影響しています。柳堤堰(りゅうていぜき)は、田んぼに水が必要な初夏から秋口にかけて主に稼働し、それによって桜川の水が備前堀へと送られます。灌漑(かんがい)には必要なことです。しかし、これにより桜川も千波湖も堰止められて水の流れがなくなり、アオコが発生しやすい環境になるのです。灌漑の時期が終わればダムも下がり、桜川はあと数日でサケが遡上(そじょう)する清流になります。さきほど汲み上げた千波湖の水も、すでにアオコは消えていましたね」

理想をいえば、堰を設けず、ポンプなどを設置して桜川の水を備前堀に直接汲み上げることができれば、千波湖の水はさほど汚れずに済むのだという。しかし、これには多くの費用がかかってしまうため、実現は難しいそうだ。市では、千波湖の中に噴水やジェットストリーマー(流動促進装置)など人工的に水の流れを起こすための装置を設置し、水質改善事業を進めてはいる。だが、残念ながら根本的な解決には至っていない。

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きれいな湧水も汚れの一因だった

環境学習会の様子に戻ろう。

ビーカーの中の水の様子を目視で確認したあと、参加者全員にCODの検査用キットが配られた。細長い筒状のパックの中にビーカーの水を吸い上げ、少し振って5分ほど待つ。すると中の試薬と混ざって水の色が変化していき、CODのおおよその数値がわかる。さて今日は何色になるだろうか。数値を示すカラーサンプルに、それぞれ自分のキットを当てていく。結果、この日のCOD値は約12㎎/lということになった。アオコで青緑に染まっていた夏は、20㎎/lもあったというから、改善してはいる。しかし、目標とする基準値は8㎎/l以下。やはり水はきれいとはいえない状態のようだ。

川島さんが続ける。

「千波湖の水の汚れにはもうひとつ原因があります。さきほど、千波湖の水の7割は桜川からきているとお話ししました。では残りの3割はというと、周囲の丘を通ってくる湧水、湧き水なんです。湧き水と聞くときれいなイメージでしょう。実際、千波湖に流れ込む湧水は澄んでいます。ただ、千波湖周辺の湧水は、千波湖の南側にある丘陵地『少年の森』周辺の、広葉樹が茂る一帯を通ってきます。長い年月をかけて落ち葉が積み重なってできた、栄養満点の土壌を通るため、湧水には窒素を始めとする養分がたっぷり含まれます。この窒素がダムの堰止めによって千波湖から出られなくなり、アオコが増える原因になっているんです」

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市民の手でつくるからこそ

 冒頭に記した「市民ビオトープづくり」の狙いは、まさにこの窒素の低減にある。窒素は、千波湖にそのまま流れ込むと汚れの原因となるが、一方で植物の生長に欠かせない栄養素だ。湧水池の水辺に水生植物が茂れば、植物が水中の養分を吸収してくれ、きれいになった水が千波湖に流れ込む。湧水池だけでなく、千波湖畔の水際にも植物が増えていけば、より効果が上がっていくだろう。

「市民ビオトープ」への想いを、川島さんはこう語る。

「子どもたちが植えた植物が育ち、市民ビオトープが機能するようになれば、千波湖のアオコが減るだけでなく、これまで鯉くらいしか生息できなかったこの水辺にもっといろいろな生き物が増えていくでしょう。行政が業者に委託して造成するのではなく、市民の皆さん、子どもたちの手でつくることに大きな意義があります。彼らが大人になって、自分の子どもを連れて千波湖で遊ぶ日がきたら、この草は自分が植えたんだ、この水辺の環境は自分たちがつくったんだと胸を張って言ってほしい。早くそのような環境になるよう改善していければと願っています」

市内を流れる桜川の水と、落ち葉の層を旅してきた湧水が出会う千波湖。そこにつくられた市民ビオトープは、千波湖を愛する市民の手によって、その名の通り「さまざまな生物が生息する場」を目指していく。

小さな湧水池を舞台にした試みではあるけれど、千波湖の水質改善そして周辺の環境保全を考えていくとき、必ずや大きな意味を持つ一歩となるに違いない。

来年の春あたりの学習会では、この市民ビオトープで「生き物観察会」が開催されるようになるだろうか。その日が待ち遠しい。

千波湖環境学習会
平成22年度から、水戸市と茨城県環境管理協会が、協働事業として月1回開催している学習会。千波湖や周辺の水質や生き物、植物などを観察し、千波湖の現状や自然環境の大切さを学ぶとともに、市民一人ひとりの環境保全に対する意識の高揚を図っている。

(文…伊藤梢、笠井峰子 │ 写真…大谷健二、平井夏樹)

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きょうだい4人で走る
「元旦マラソン」

──走るのはあまり得意じゃないけれど。4人一緒だから完走できる!

 

新しい年の始め、元日の朝の千波湖は、「水戸市元旦マラソン」に出場する市民ランナーたちの熱気であふれる。小学校1年生以上なら誰でも参加できるとあって、毎年2000人以上の市民が、無病息災を願いながら1周3キロの湖畔をそれぞれのペースで走り抜ける。この「元旦マラソン」をテーマにしたページを企画するため、出場経験のある小・中学生に取材できればと、大会を主催する水戸市スポーツ振興協会に打診したところ、「平成24年度に選手宣誓を行った4きょうだいはどうですか」との返答。きょうだい4人そろって出場とはなんて熱心な、と感心しながら、指定の日時に、冬奈(中3)、莉奈(中1)、充駿(小5)、弥花(小3)の4人に会いに行った。

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子どもって走れちゃうんですね

三女一男からなるこの4人きょうだいの元旦マラソン歴は、平成18年に始まる。当時小学3年生だった長女冬奈と小学1年生の二女莉奈が初出場を果たし、まだ就学前の長男の充駿と三女の弥花は湖畔での応援を体験した。その応援組の2人も、小学1年生となった年にランナーとして参加し、以降は毎年4人そろって出場して完走を続けている。

さぞかし運動が得意な4人なのだろうと、母親のかおりさんに尋ねると、意外な答えが返ってきた。

「それがねえ、うちはまったく逆なんです。4人とも運動が苦手で。元旦マラソンが少しでも健康づくりのきっかけになればと、小学校の担任の先生にも勧められて。それで、7年前に初めて参加したんです」

最初の年だけ、かおりさんも一緒に走り、その後は、きょうだいたちだけで参加させている。

「小学校1年生で3キロって、ものすごくたいへんだと思うんですよね。学校のマラソン大会は500メートルですから。大人の自分が走ってもすごく辛かったし、うちの子は無理かなぁと思ってたんですが、子どもってやらせてみると、走れちゃうんですよね!驚きました」

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きょうだい4人の絆を感じる日

 長女の冬奈にとっては、平成25年の元旦マラソンで7回目の出場となる。スポーツが苦手なのになぜ出場し続けるのだろう?

「そうですね、なんでだろう。なんか当たり前のことになってきた。当日の朝は早くて起きるの辛いけど、走り終わると気持ちいい。だから1年経つとまた走ろうかなって」

きょうだい唯一の男子、充駿も同じ意見だ。

「うん、走り終わるとスッとする」

出場を続けられるのは、きょうだい4人一緒に走るからかな?

「うん、それもある」と冬奈。

莉奈が続ける。

「ふだんの生活では、だんだん一緒にいる時間が少なくなってきてるけど、千波湖を走るとあらためてきょうだい4人の絆を感じる。先にゴールしても、ちゃんと応援してくれているのがわかるし」

ヨーイ、ドン!でスタートして、しばらくは4人とも近い位置で走っているが、そのうちにまず充駿が「バイバイ!」とペースを上げていく。続くのは、長女の冬奈。二女の莉奈は、一番下の弥花と一緒に走る。なるべく歩かないように、止まらないように、弥花を励まし続けながら、弥花のペースに合わせて走る。

「去年はまんなかくらいでおなか痛くなっちゃった」と弥花。

「おなか痛くなるよねぇ」と莉奈。

それでも、痛みをこらえながら2人は走り続け、最後は莉奈が年下の弥花に先を譲って、フィニッシュした。「310番だった!」と弥花が笑顔を輝かせる。

水戸市民には馴染みの「310」という数字。市の郵便番号と同じで、しかも「ミト」と読める!

莉奈が譲ってくれたこの順位を、弥花はちょっぴり誇らしく感じているようだ。

インタビューのあと、4人に平成25年の元旦マラソンに向けての抱負を書いてもらった。冬奈は「みんなで楽しく走りたい」、莉奈は「精いっぱいの力を出しきる」、充駿は「4人の中でまた1位になる」、そして弥花は「300番以内に入りたい」。

みんな、目標を達成できただろうか──。達成できても、できなくても。ひとつ確かなことは、4人の絆が、新たな「元旦マラソン」を経てまた一段と強く固く結ばれただろうということ。母親のかおりさんの言葉を思い出す。

「毎年、『元旦マラソン』が終わったら、家に帰って、届いた年賀状をみんなで見ながら、ゆっくりとごはんを食べます。それが、うちの幸せなお正月の光景かな」

今年の元旦も、4人は完走の達成感に包まれながら、笑顔でおせちをほおばったに違いない。

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水戸市元旦マラソン大会
毎年元日の朝に千波湖を舞台に開催される市民マラソン大会。平成25年で28回目を数える。距離は千波湖1周3kmで競われる。参加は、事前申し込み制で、2300人が定員。申し込み順にゼッケン番号が決まり、その年の和暦年号と同じゼッケン番号をもらった人が、開会式で選手宣誓を行う。平成24年は、左の写真のとおり、きょうだいのうち充駿が24番だったが、主催者側の提案で、きょうだい4人そろっての宣誓となった。

(文…笠井峰子 │ 写真…大谷健二)

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千波湖から歩いていける
いいお店。

──少~し足をのばして、ひと休み

 

千波湖のまわりには、カフェやレストラン、雑貨店など、個性的で楽しい店がけっこうある。せっかく千波湖まで来たのなら、これらの店めぐりもぜひ楽しみたいもの。湖畔に建つ店から、ぶらり散歩を楽しんだ後に到着する店まで、千波湖近くのいい店、12店をご紹介。

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好文cafe

眼前に千波湖を眺めて、ひとやすみ

千波湖の水の透明感をイメージしたガラス張りの開放感あふれるカフェ。屋上は芝生張りで、目の前に千波湖、その向こうに水戸市街地を望むロケーションが魅力。行方産「美明豚」や県産牛、無農薬・有機野菜などを使う、地元ならではの料理やスイーツを提供。「美明豚のソテー赤ワインソース」(1000円)、「茨城牛ビーフシチュー」(1200円)、「無農薬有機野菜の盛り合わせ」(800円)。

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とう粋庵

和モダンの空間で、上質なひとときを。

四季の移ろいを満喫できる、千波湖のほとりに佇むモダン懐石料理の店。和の心を伝える料理、厳選されたお酒、洗練の空間、心のこもったサービスで、とっておきの贅沢な時間を演出。日本料理をベースにしながらも、ジャンルにとらわれない様々な素材を取り入れ、独自のスタイルで供する料理は、目にも華やか。昼は「花かご膳」(2625円)など。夜は「モダン懐石美庵」(4200円)など。

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トネリコ

北欧雑貨の素朴で温かな魅力を、堪能。

古いビルを改装した温もりある店内には、スウェーデンやフィンランドを中心にした北欧のテーブルウエアや雑貨が並んでいる。ヴィンテージの食器や鍋、文具など、その独特な色合いやデザイン、優れた機能性は、ゆったりとした北欧の生活を感じさせてくれるものばかり。オーナーの確かな目で選んだ希少なアイテムは、北欧雑貨好きの人から熱い支持を得ている。

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ハナトコ

花と雑貨とカフェがつむぐ優しい時間

花&雑貨&カフェの店。店名は「花の寝床」から。お花があって心地いいと感じてもらえる“空気感”を大切にしている。東京の市場に出かけ吟味して仕入れる花は、渋めの色合いの草花系が多く、この辺りでは珍しい品揃え。ブライダルや記念日などのアレンジも評判。カフェでは、体に優しい料理を月替わりで提供するほか、手仕事の良さが伝わる器や道具などを販売。

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フランス料理 プティ・ポワル
ミュージアム店

美術を堪能して、美食に舌つづみ

茨城県近代美術館内にあるフランス料理店。大きな窓から千波湖を一望できる洗練された空間で、カフェや食事が楽しめる。おすすめは、経験を積んだシェフが茨城の食材を積極的に取り入れ、企画展に合わせて編み出す料理やスイーツ。ランチタイム(11:00~14:30)は、企画展に合わせたメニュー、軽食を用意。ランチ1000円から、コース料理2000円前後。

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茨城県近代美術館
ミュージアムショップ「みえる」

個性が光る、アートなグッズが勢ぞろい

書籍、雑貨、文具、陶器、アクセサリーなどを扱う。ヴィンテージの家具を取り入れたディスプレイが印象的。ユニークな店名「みえる」は、「芸術を見る、鑑賞するという美術館ならではのスタンス」をストレートに表現。「ここでしか手に入らないものを」と、現代美術作家であるオーナーのセレクトは、ユニークなアイテムから上質なグッズまで、充実した品揃え。

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カルマ

異国的空間で味わう、本格スパイシーカレー

エキゾチックな雰囲気が漂う店内で、南インドのスパイシーなカレーが楽しめる。香辛料を独自にブレンドしたカレーは8種類。羊や鶏の肉、野菜、豆など、吟味した材料を使い、化学調味料は不使用。「体にいいもの、記憶に残る味」を目指している。ランチは、カレー2種、サラダなどのセット850円から。ほかに「ムルガマサラ」(850円)「豆のカレー」(750円)など。

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水戸スペインバル ガンチョ

シェリー酒&生ハムで、情熱の国スペインへ

スペインの南部アンダルシアの雰囲気を演出。その地方で味わえる料理やシェリー酒を提供。おすすめは、スペイン産ハモンイベリコの生ハム。生ハムを扱う大会「コルタドールコンテスト」で優勝した店主がカットする味わいは、スパイシーな香りでワインとの相性が格別。シェリー酒は約70種類。エスプレッソ350円、シェリー酒1杯500円から。生ハム1皿400円から。

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フランス菓子 ルブラン

端正なフランス菓子で、ティータイム

本場フランスの伝統を大切にしつつ、日本の四季を感じる素材を取り入れた洋菓子は、優雅な雰囲気。体に優しい材料を吟味し、生クリームやバターはケーキの種類によって使い分ける。看板商品のモンブランをはじめ、マカロン、ショコラなど逸品ぞろい。エレガントに飾られたティールームでは、極上のケーキと上質の紅茶が楽しめる。天気の良い日はテラス席もおすすめ。

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サロン・ド・テ なかやま 水戸店

大人のためのティーサロンで、優雅に寛ぐ

フランスのプロヴァンス地方をイメージした明るい店内。優雅なインテリアに囲まれ、寛ぎのティータイムが過ごせる。自家焙煎のブレンドコーヒーは香り高く、マイルドな味わい。紅茶は、フランスの「ジャンナッツ」とインド直送のものを使用。おすすめは6種類を揃えたダージリン(ポット600円~)。サラダとドリンク付きのランチは7種類(900円~)。店内は分煙。

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ラ・ロサ・メヒカナ

陽気でキッチュな、メキシカン・ワールド!

鮮やかな色と柄が印象的なメキシカン・アートの世界が広がる。店名は、「メキシカン・ピンク」という陽気でファンキーな色をイメージ。壁飾り、バッグ、アクセサリー、洋服、雑貨は、オーナーが現地のアーティストたちと出会い、プロデュースしたもので、“メキシコ感覚”が表現されたオリジナルな1点ものがほとんど。

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ぱん家 クルート

水戸の街角に薫る、焼きたてパンの香ばしさ

天然酵母を使い、じっくり熟成させたパンは、麦の独特の香りと甘みが生きている。店名は、「パリッと香ばしいパンの皮」という仏語から。その名の通り、堅焼きのフランスパン「バゲット」(190円)がおすすめ。仏産小麦と塩を使い、低温で16時間ほど発酵させて焼き上げる自信作のひとつ。焦がしバターの風味がきいた「リンゴとクルミのリュスティック」(130円)もおすすめ。

(文…海藤和恵 │ 写真…大谷健二 │ イラスト…阿部由美)

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千波湖タイムスリップ

──古地図をひも解く

 

「水戸」という地名は、那珂川の流れと千波湖の水が、馬の背状の大地を出入りする様子に由来するとか。昔もいまも水戸のシンボルである千波湖と、その水辺の地域。時代とともに姿を変えてきた千波湖と水戸の人々とのかかわりを、水戸の由緒に詳しい須藤文彦(水戸市職員/水戸市政策研究会代表)が解説する。

現在の4倍大きかったかつての千波湖、
その開発の歴史

千波湖は人造の湖ではありませんが、現在のような形に固まったのは比較的最近のことです。

この古地図を見るとわかるように、江戸時代の千波湖は現在よりはるかに面積が大きく、西半分は「上沼」、東半分は「下沼」と呼ばれていました。市役所の本庁舎(震災被害により現在は使用停止中)があるのは、昔の下沼だったところです。

現代風の千波湖の楽しみ方といえば、水辺の周りを軽やかにジョギングしたり、少年の森で遊具遊びをしたりと、健康志向のものがメインですが、昔の人は千波湖とどのように付き合ってきたのでしょうか。

昭和50年頃までに生まれた世代に懐かしいのは、千波湖南岸にあった「偕楽園レイクランド」でしょう。昭和43(1968)年にオープンしたこの遊園地は観覧車やメリーゴーランド、ローラーコースターなど定番の遊具を備え、昭和57(1982)年の閉園まで水戸のファミリーに欠かせない娯楽の殿堂でした。

また、昭和30年代に生まれた方に尋ねると、自転車で釣りをしに行った思い出を楽しそうに語ります。夏にはアオコで覆われてしまう今の千波湖ですが、当時はまだ水質がきれいだったようで、釣りに夢中になってザブザブと水の中に入っていくこともよくあったそうです。

戦後は水戸も開発の時代で、すでに水田となっていた下沼のエリアが宅地造成され、夢と希望があふれる新市街地が生み出されました。その牽引役として昭和47(1972)年に上市(水戸駅北口側のエリア)の「馬の背台地」から下りて来たのが市役所です。当時はまだまだ開発途上で、「周りは荒涼とした風景で、昼飯を食べるのも難儀だった」と古参の職員が懐かしそうに語ります。職員がせっせと通うにつれてどんどん拡張していった店もあるとの証言からは、自分たちが店を大きく育てていったという自負のようなものも感じられます。

埋め立ての危機を乗り越え、現在の姿になる

今ではとても考えられないことですが、終戦直後には、現在の千波湖、つまり上沼にあたる部分も食糧増産のため埋め立ててしまうという案も浮上したようです。戦災復興のためにまとめられたと考えられる「水戸都市計画地域指定案参考資料と解説」という文書には、「此の沼を埋めて仕舞ふことは、必ずそのくひを子孫に残すことは必定である」と熱っぽく記述され、「風致地区」としてこの景観を守ることが高らかに宣言されています。

下沼が埋め立てられ、一大水田地帯に変貌したのは千波湖改修事業によってですが、これは大正10(1921)年に着手され、昭和7(1932)年に完了します。この改修事業をきっかけに、残された千波湖の周辺整備が進められ、湖面でのボート遊びや遊漁など、千波湖での新しい遊び方が盛んになったようです。

現在の駅南地区を思うと想像するのがかなり難しいですが、埋め立てられる前の下沼はジュンサイの宝庫でした。河童画で有名な小川芋銭は下沼に舟を浮かべて好物のジュンサイを肴に酒を楽しんだようです。当時の文化人たちは、酢とウイスキーを用意して小舟を出し、舟べりにジュンサイをたぐり寄せてちぎって酢の中に投げ込み、肴にして呑むという、なんとも風雅な遊びを楽しんでいました。

古来から千波湖では魚鳥の漁が禁止されていたため、このジュンサイくらいが正規の生産物だったと言えますが、明治に入ると漁業が解禁されたらしく、ウナギ、エビ、ドジョウなどの漁獲が記録されています。市街地に程近い千波湖では、密漁していた人もいたと考えられ、ジュンサイだけでなくこうした水産物を味わう人々も、じつは意外にたくさんいたのかもしれません。

茨城中学(現在の茨城高校)の校長を務めた本多五陵によると、明治・大正の頃の千波湖は水生植物の宝庫とでもいうべき景観で、ジュンサイが多く見られた下沼だけでなく、上沼には一面にアシが生い茂り、水面にはハスが浮かび、その間を水鳥が泳ぐような、手付かずの自然が見られたようです。

エビは大きさ1.2~1.5センチほどの小エビで「千波エビ」とも呼ばれ、水戸の名産品でした。11月の小春時には湖畔のいたるところで赤い小さな茹でエビがムシロの上に干されており、水戸の人は大根と一緒に煮てよく食べたとのこと。このエビは三浜(大洗、那珂湊、平磯)の漁夫が鯛を釣るには欠かせない餌だったので、高い値段で飛ぶように売れたと言います。

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文人墨客の目を楽しませた千波湖の風景

 昔から詩作をそそる対象でもあった千波湖ですが、かの詩人・正岡子規は明治22(1889)年に学友の菊池謙二郎の水戸の実家を訪ねた折に、

この家を鴨ものぞくや仙波沼

という句を残しました。

ちなみに、当の菊池はこの年に開通したばかりの水戸鉄道(現在の水戸線)でちょうど上京してしまい行き違いで会えなかったそうですが、この水戸鉄道の線路は、偕楽園の崖下と千波湖との間に敷設されたので(現在の常磐線の線路の位置と同じ)、水辺の景観を大きく変える原因となりました。また、蒸気機関車に使った石炭の燃え殻で千波湖を埋め立てて駅構内を拡張したことで、マラリアの原因となる蚊の発生を抑えるという思わぬ効果を発揮した、という説もあるようです。

子規が眺めた千波湖を追体験するのに便利なのが、松平雪江が明治18(1885)年に出版した『常磐公園攬勝図誌』です。鉄道開通後に水戸の名所案内本の役割も果たしたと考えられるこの名著は、現在水戸市立中央図書館のホームページで内容を見ることができます。

この本は図版が豊富に掲載されているのが特徴で、「楽寿楼上より千湖を望む図」では偕楽園の好文亭の最上階から風景を楽しむ人々の様子が描かれ、藩政時代とは違い、偕楽園から千波湖を眺める楽しみが庶民の手に渡ったことを明快に示しています。

また「千波湖」と題された図版は広々とした下沼が遠近感をもって描かれ、小屋から何艘もの舟を繰り出して舟遊びに興じる人々の姿が見えます。舟から湖面に身を乗り出す人はジュンサイを手づかみにしようとしているのでしょうか。

江戸時代にもこのようなのどかな風景が見られたかもしれませんが、その頃の千波湖は水戸城の南の守りとしての意義が大きかったため、水辺を楽しむ自由は庶民にはほとんどなかったと考えられます。軍事防衛上の理由から、水深が浅いことを知られるのを防ぐため、舟を漕ぐのに棹をさすことさえ禁じられていたようです。

そもそも水戸城が現在の水戸一高から弘道館までのエリアを主郭とする構えとしたのは、北に那珂川、南に千波湖を備えた天然の要害の地であったことが大きな理由であるとされています。当時の千波湖は明治・大正の頃と比べてずいぶん殺伐としていたのかもしれません。

ただ、光圀公の治世には上町(上市)と下町(下市)の連絡路として造られていた湖中の新道に、数百株もの柳の木を植えて往来する人々の日除けの機能を与え、中国にある西湖の蘇堤(そてい)にならって「柳堤(りゅうてい)」と名付けたという、やわらかいエピソードも史実として残っています。

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黄門様も愛した千波湖。
むかしも今も大切な水戸のシンボル

昔は千波湖の周辺には鶴が棲息していましたが、禁猟のためか人慣れしていて、すぐそばまで来ることもあったようです。水鳥が群れをなして湖面を飛翔する姿など、文人墨客の目と心を楽しませる風景がここにありました。

光圀公も千波湖の風光を好み、千波八景を命名したと伝えられます。

【千波八景】 七面山の秋月/神崎時の晩鐘/梅戸の夕照/下谷の帰帆/柳堤の夜の雨/藤柄の晴嵐/藪田の落雁/緑岡の暮雪

江戸時代に城を守るための軍事的役割を期待されていた千波湖ですが、一方では田を潤す用水源という重要な役割もありました。これを維持するために毎年の蓮払い、藻屑払いが城下町の武士と町民に義務付けられており、町方では表間口の大きさに応じて人足が徴収されていました。

水戸藩初代藩主頼房公の治世に城下東部の低湿地帯を埋め立て、田町すなわち後の下市となる商人町ができたのは有名な話ですが、現在の駅南地区だけでなく、その東に位置する下市地区も、もともとは千波湖に続く水辺だったことが想像されます。

駅南地区や下市地区では東日本大震災で地盤沈下など大きな被害がありましたが、私たちが千波湖とどのように付き合ってきたかという歴史を顧みて、水戸という都市の将来をしっかりと考えるちょうどいい時期なのかなという気がいたします。

『水戸城下図』天保元(1830)年 徳川ミュージアム所蔵(c)徳川ミュージアム・イメージアーカイブ/DNPartcom
【主な参考文献】 高倉胤明『水府地理温故録』、小宮山楓軒『水府志料』、金子竹酔『明治後半期と大正時代の下市回顧録』、大槻功『都市の中の湖 千波湖と水戸の歴史』、網代茂『水府巷談』『水府異聞』『水府綺談』、水戸市立博物館『千波湖の自然』

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水戸市関連サイト・SNS

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データから見る水戸市

たとえば東京都と比べてみると…。水戸の1住宅あたりの延べ面積は約1.5倍、市民1人あたりの都市公園面積は約2倍、1世帯あたりの乗用車の所有台数は約3倍!

 

  水戸 東京
  (2010) (2010)
面積: 217.43k㎡ 2,188.67k㎡
(都区部)
平均気温: 14.5℃ 16.9℃
降水量: 1,530.5mm 1,679.5mm
日照時間: 2012.9時間 1987.0時間
人口: 269,839人 13,227,204人
世帯数: 114652 6706462
世帯あたり人数: 2.35人 1.97人
1住宅あたりの延べ面積: 93.4㎡ 62.51㎡
持家世帯比率: 0.564 0.446
人口1万人当たり医師数: 24.0人 28.5人
1世帯あたりの1ヶ月消費支出金額: 318,633円 331,740円
消費者物価指数: 98.4 106.5
(都区部)
1世帯あたりの乗用自動車台数: 1.45台 0.47台
市民1人あたりの都市公園面積: 11.1㎡ 5.70㎡
合計特殊出生率: 1.39 1.04
死亡率(年間届出件数÷人口×1,000): 7.8 7.5
婚姻率(年間届出件数÷人口×1,000): 6.1 7
離婚率(年間届出件数÷人口×1,000): 2.1 2.2

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編集後記

水戸を一人でも多くの方に知ってほしい、訪れてほしい…という想いからつくった「ミトノート」。創刊号では、水戸の市街地の真ん中にあり、市民の憩いの場である「千波湖」(せんばこ)を取り上げました。これからも水戸の魅力をお届けしていきますので、ぜひご期待ください。

 

ミトノート 創刊号
発行日
平成25年1月
発行者
水戸市 みとの魅力発信課
編集・デザイン
有限会社平井情報デザイン室

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